【聞書き】梅本さん 大正6年生まれ (2) 尼崎を経て横浜へ・子供のこと

【 尼崎を経て横浜へ 】 

夫はアサヒガラスの研究所に勤めていまして、転勤で尼崎に行きました。
尼崎に行きましても、私はぶらぶらしているのは好きではないので、バスガールをしていました。
今の人は敬語なんて使わないですけどね、家族でも友達みたいに話してる。当時はね、バスガールはきちんと敬語でお客様に話したものです。どちらまでおこしですか、お足もとご注意願いますってね。
そうやって、16年働きました。

そのあと、主人の働きがよかったんでしょう、鶴見(横浜)の研究所に異動になりまして、こっちに来ました。
私は主人の職場を見せてもらいに行ってね。ガラスの研究所というのは、それはもう暑いところでした。こうやって暑いところで汗流して苦労して稼いできてくれるのだから、一銭もムダにはできないと思って、ありがたいって思いました。
私もね、工場のお掃除の仕事させてもらったりして働きました。
今はなんでもお金払えばできるけど、そうやってたらお金なんていくらあっても足りないでしょ。悪くなった物は繕ってね。大事に使うものです。服だって、ずーっと買ったことなかったの。お父さんのね、悪くなったズボンがあるでしょ。あれをね、ほどいて私の服にしていたの。
そうやって節約してね。孫にあげるの。

始めはね、工場のそばに住んでいたんですけど、ここの土地があるって聞いて、買ったの。
56坪!
始めはお父さんにも内緒でね!!
鶴見からはちょっと遠くなるけどね。当時は畑ばっかりだったのよ。
今はこんなに家ばかりになっちゃったけど。

 

【 子供のこと 】

息子はね、大事だからね。学校もね、小学校もこの辺の学校にやらないで、駅の方の学校にやってね。中高はね、浅野に行かせたの。それもね、私が調べて学校見に行って、ここがいい、と思って。
大学は早稲田の国文。それで学校の先生になったんだからね。
やっぱり子供は大事。学校は大事にしないと。
私は女学校も出てないし、学はないけど、子供にはきちんと学校行かせた。そういうのは分かります。

近所の子も大事にしないとね。
この辺の子も、元気にあいさつしてくれるよ。大事にしてればね、子供だって分かるからね。